
[報告書目次]
アジア地域の安全保障と原子力平和利用
1. 三門峡ダムの建設と治泥問題
建国後中共政権は「黄河の水害を根絶し、黄河の水利を開発する総合計画」を立案し、第1次5ヵ年計画(1953~57年)から着工した。この計画は一言で説明すれば、「黄河本流の階段型開発計画」、すなわち黄河の本流に一連のダムを建設して、黄河を「はしご段型の河」に改造する計画である。この計画では、黄河上流の竜羊峡から、黄河下流の河南省の桃花峪に至る区間を、河流の特徴に応じて四つの段階に分けて開発・利用する。(*1)
第一段は、竜羊峡から甘粛省の青銅峡までの区間。この区間では、黄河は深い峰の間を通って流れ、河床の勾配は非常に急で、きわめて豊かな水力資源を持っている。他方蘭州をはじめとする新工業地区が急速に発展しているので、なによりも電力の需要がある。
第二段は、青銅峡から内蒙古自治区の河口鎮間での区間。この区間は両岸が山間の平地で、土地は肥沃であるが、雨量が極端に少ない。河道は広く、ほとんど勾配がないので、船の航行が可能である。この区間では、灌漑と航運を発展させる。
第三段は河口鎮から山西省禹門口までの区間で。この区間で黄河は狭い峡谷となり、河道の勾配は非常にきつくなるが、地質条件と地理的条件から大型のダムや貯水池を建設することは難しく、上流に流水量を調節する大貯水池ができた後にはじめて、水力発電を行うことが可能となる。
第四段は、西省禹門口から河南省桃花峪までの区間。この区間は両岸が黄土地帯で、河道が狭く、峡谷地帯なので、黄河下流の洪水を防止するカギとなる区間である。また山西省、河南省、陝西省の工業地区に近いので、この区間の任務は、洪水の防止と水力発電にある。さらに下流は平原であり、河道は平坦なので、ダムを作って両岸の農業地帯を灌漑することである。
こうした計画の下に、四つの段には、それぞれ異なる条件と異なる任務に適したダムが44ヵ所建設されるほか、黄河下流にも灌漑用のダムが2ヵ所建設され、合計46ヵ所のダムが建設される計画であった。そしてこの計画が完成すると、発電設備総出力は2,300万kW、年間平均総発電量は1,100億kW時、潅漑面積は計画時の約7倍増の1億1,600万華畝(779万7,500町歩)とされた。
この壮大な計画の中核的役割を果たす位置にあるプロジェクトが、三門峡ダムの建設であった。三門峡は黄河高原を激流となって下ってきた黄河が、下流に入る手前に位置する。この三門峡に、洪水防止、発電、灌漑の総合的な目的を持つダムが建設された。長さ1,100m、高さ116m、基部の厚さ60mの堰堤で堰止められた貯水池の面積は2,350km²、貯水量は360億m³、当時世界第2位の大きさのダムであった。13万7,500万kWの発電機が8基で、発電設備容量の総出力は110万kW、年間発電量は60億kW時であった。
当時の青写真によれば、「三門峡ダム貯水池の貯水力は極めて大きく、黄河主流の泥水を食い止めるダムがあり、とりわけ黄河中流の水量を保持する機能を果たすので、この三門峡貯水池は少なくとも50年から70年、あるいはもっと長期にわたって、その機能を保持することができるし、またその時になると、他の一連の措置によって黄河の水量は著しく軽減されるであろう」とされた。
1957年4月から正式に本工事が着工され、翌58年11月黄河の流れは堰き止められた。1959年2月には高さ106m、長さ963mの堰堤が出来て、80万人の住む地域が人造湖になった。「黄河の征服が始まる、国を挙げて注目する三門峡水利本工事が正式に着工」(*2)。これは本工事が正式に着工された当日の『人民日報』第1面記事であり、さらに「皆が三門峡を支援しよう!」という社説が書かれた(*3)。5月5日の同紙は、第8面の全面を使って工事の進展を示す写真特集が組まれた(*4)。1958年11月に黄河本流を堰き止めた際には、「三門峡堰き止め工事は驚くべき速度で完成、戦闘8日で黄河を堰き止める」と大きく報道し(*5)、翌1959年7月には、「昔の”中流砥柱”は今日の黄河工事とは比較にならない、三門峡が増水期の水位を半減した」(*6)、「三門峡工事は黄河の水の急増・激減を阻止、黄河の増水は花園口を平穏に通過」(*7)と、三門峡ダムの洪水防止の役割が早くも実現されていることが大きく報じられた。
このように大きな期待と宣伝で着手された三門峡ダム建設工事は、1960年2月に出力15万kWの第1号発電機が据え付けられたとの報道(*8)を最後に、何も報道されなくなつた。1958年に堰堤が完成して以後年間5億トンから6億トンの割合で土砂がダムに沈殿し始めた。しかしその圧力でダムが決壊するというのではなく、沈澱した大量の土砂が河を遡り、約100km上流で黄河に流れ込む支流の一つ、渭水の出入口を塞ぐ。塞がれた水は逆流して、さらに130km上流の流域にある関中平原や古都西安(漢や唐の都があった長安)を水没させる危険が生まれたため、工事は半ばにして中止された。このことは1974年12月になって突然初めて公表された(*9)。なおこの文献によれば、厚さ5cmの水力発電用タービンの鋼鉄製プロペラが3年間で半分に摩滅するという。
三門峡ダムの建設は、黄河の洪水を防止する問題は治水ではなく、治泥であることを教えた。三門峡の問題は堆砂のメカニズムがはっきりと解らなかったところにあった。中国の河川のなかでも黄河の運ぶ土砂の量は年間13億8,000万トン、容積にして9億2,000万トン、その土砂で高さ・幅それそれぞれ1mの堤防を作ると、地球の赤道を23周するといわれるほどの量である。これらの土砂は傾斜が緩くなる下流で堆積して天井川を作り、過去3,000年の間1,500余回の氾濫・決壊を起こしたばかりか、26回もの河道を大きく変遷させた。平均すると、2年に1回決壊し、100余年に1回河道が変わったことになる。河口に堆積する土砂は幅40kmの扇形で、1949年~51年の間の3年間に10km前進し、河底はほぼ毎年1cmから10cm高くなり、天井川であることが氾濫を繰り返す原因となっている。(*10)
1957年に三門峡プロジェクトの論証が行なわれた時、黄河には基本的に大規ダムを建設してはならないと主張して唯一人反対した黄万里は、三峡プロジェクトの論証においても同じ主張をしている。彼の主張によると、黄河と長江の本流では、「堆積性河段」にダムを絶対に建設してはならない。三門峡と三峡がこれに該当する。1957年に水利専門家はこの点に関する綿密な研究を行わずに、水利技術者もこの道理が解らないままに、建設に着工してしまった。上流の水土保全さえ行なえば黄河の土砂は下流に流れてこないと考えたのである。(*11)
その後水利専門家たちは、頑なにその立場を改めなかったために、黄は、施工の際ダム堤体の下部に設けた排水口を塞がないよう提案した。その理由は、黄河において運ばれてくるのは主として泥砂であるから、その一部を排出できるからである。こうして排水口を残して土砂吐けとし利用するという意見は全員の同意を得た。ところがソ連の専門家の意見に従って排水口は塞がれてしまった。そしてダム建設の2年後には上流に土砂が堆積してしまい、深刻な状態が生まれたため、工事を打ち切った。
1965年から改修工事が始まり、69年から第二次改修工事が行われた。工事は1973年末まで続いた。数度にわたってダイナマイトを仕掛けて爆破され、改修しては破壊し、破壊しては再建し、そのようなことが何度も繰り返された。その結果、本来120万kWの水量調整機能を有する水力発電所は、25万kWの水量調整機能しか有しない流れ込み式発電所へと変わってしまった。当初計画の5分の1の規模に縮小されたことになる。これが世界第2位の大規模ダムの完成した姿であった。(*12)
2. 黄河上流の水力発電所建設
こうして三門峡ダムの建設は失敗に終わり、三門峡から内蒙古へかけての開発は中断してしまったが、第一段、すなわち黄河上流の青海省・竜羊峡から甘粛省・青銅峡までの区間の開発は進展した。この区間の長さは918kmで、その間の落差は1,324mもあり、階段状に25ヵ所の大型・中型の水力発電所の建設が計画されている。三門峡で問題となった土沙の含有量も少なく、水力発電に適している。完成すると、総出力は1,587万8,000kW、年間発電量は567億7,000kW時に達する。(*13)
これらの電力は青海省、甘粛省、寧夏自治区、蒙古族自治区の四地区の有色金属冶金、石油化学、鉄合金などの電力を大量に消費する工業、および旱魃に悩まされるこれら地区の灌漑に使用され、食糧増産、緑化に活用される。なかでも有色金属の生産量は、数字が古いが、1980年代中葉の時点で全国総生産量のおよそ4分の1で、「地上には草も生えず、風が吹けば風沙が舞う」といった荒涼とした地帯には、20余りの有色金属関連の大中型国防工業企業が建設され、アルミニウム、銅、亜鉛、金属珪、珪素鋼など1,000万トン、金額にして500余億元に達した。(*14)

発電所が建設される区間は山高く、谷深く、川幅は狭く、住民の移住は少なくて済み、水没による経済的損失も少ない。それ故工事費は安価ですみ、工事期間も短いという利点を利用しての開発である。これまでに竜羊峡、李家峡、劉家峡、塩鍋峡、八盤峡、大峡、青銅峡の7ヵ所の大型・中型水力発電所が、完成あるいは建設中である。だが総出力は561万8,000kWで、黄河上流の開発可能な出力のわずか3分の1で、さらに1,000万kW余りの開発が可能という。次に主要な発電所の建設について記述する。
1) 劉家峡水力発電所(*15)
黄河上流に建設されている水力発電所のなかで、上流から7番目の水力発電所である。甘粛省の省都・蘭州から黄河を100km遡った劉家峡に建設された。発電を主体とし、洪水防止、灌漑、流氷の防止、航運、養殖などを目的とした多目的ダムで、堰堤の高さは147m、長さ213mと当時としては、三門峡をしのぐ大きなダムであった。
三門峡より少し遅く、1958年9月着工された。1961年に一時停止の後、64年に再開され、1969年3月に最初の発電機が発電を開始した。1974年末5機の発電機がすべて稼動した。そのうちの1機は国産の30万kWの二重内部水冷式水タービン発電機5機で、総発電設備容量は116万kW、年間平均発電量は57億kW、渇水期40kW、年間総発電量は建国以前の中国の年間総発電量をしのぐ。総発電設備容量100万kW以上の大型水力発電所はこれが初めてであった。
生産された電気は4本の220kV、1本の330kVの送電線で、甘粛省の蘭州、天水、青海省の西寧、陝西省の関中に送られる。そのなかで関中に送られる530km余の330kV超高圧送電線は、中国で初めて建設された。これらの送電線は甘粛、青海、陝西の電力網と接続され、東では関中平原、西は青海高原、南は甘南草地、北はトンゴリ砂漠を臨む数千kmの大電力網を形成し、西北地区の工業・農業生産の発展を促進するばかりか、下流の蘭州、包頭などの工業基地の洪水を防止し、寧夏、内蒙古の700kmに及ぶ河段段丘の解氷時の氷害を防止する。ダムでは鯉、虹鱒などの養殖を行う。
なお蘭州には、原水爆の材料である濃縮ウランを生産する施設がある。ウランの濃縮には大量の電力を必要とする。建設時期が一致しないところからはっきりしたことは分からないが、劉家峡水力発電所の建設には、蘭州濃縮ウラン施設の建設と関連性があると考えられる。(*16)
2) 竜羊峡水力発電所
竜羊峡水力発電所は、黄河上流に階段式に建設される水力発電所のうち最も上流の青海省海南チベット族自治州に、1976年に着工され、1987年から発電を開始し、1989年に完成した。32万kWの発電機4基を備え、総出力は128万kW、年間発電量は60億kW時。当時の時点で、長江に建設された葛洲覇発電所に次ぐ水力発電所であった。電力は青海省の省都西寧と甘粛省の省都である蘭州の工業都市、石油資源を開発中のチャイダム盆地、さらに甘粛河西回廊の食糧基地に送電される。(*17)
標高が高く、寒冷期が長く、都市および鉄道路線から遠く、生活上の不便から、建設は自給自足による大慶方式で遂行された。工事中の1981年9月「100年来の特大の洪水」に見舞われ、また1990年4月には震度6.9の大地震が青海省で発生したが、ダムへの影響はなかった。ところが発電所は流砂に包囲され、毎年ダムに流入する流砂は3,131万m³で、ダムの水量の減少ばかりか、水力発電機の摩損を増加するなど重大な脅威に直面している(*18)。1997年8月竜羊峡地区に激しい豪雨があり、巨大な土砂崩れが発生し、発電所の建物が破壊され、復旧に1億元余を要した。竜羊峡地区の降水量は年間310mmと少なく、ダムの周辺地区を緑化するには水がなく、発電所の周辺にわずかばかりの樹木が茂っているだけである(*19)。そのような場所に巨大なダムを建設したところに問題がある。だがこれも建設時期が一致しないところから、明瞭なことは分からないが、先に論じたチャイダム盆地の石油資源開発のほか、ダムに近い青海湖の辺には、核弾頭を製造する施設があり、竜羊峡水力発電所の建設はこの施設との関連性があると推測される。(*20)
3) 李家峡発電所
竜羊峡の下流に建設された水力発電所。国家、陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区青海省の四つの省・自治区が共同で出資し、1987年8月に着工された。第9次5ヵ年計画の重点プロジェクトとして遂行され、1998年から発電が開始された。40万kWの発電機5基、総出力200万kW、年間発電量59億kW時。(*21)
竜羊峡と李家峡の2ヵ所の発電所を、資金調達のための母体発電所として、雪だるま開発方式によって、黄河上流の水力資源の開発を進めようとしている(*22)。その一つである総出力150万kWの公伯峡発電所は前期工事が始まっており、総出力372万kWの拉西瓦発電所は前期工事の準備作業が進められており、総出力100万kWの積石峡発電所は初歩設計が近く完成する。総出力16万kWの尼那発電所、7万5,000kW 4基の大峡発電所など中型発電所の工事も始まっている。(*23)
註
[報告書目次]